『T氏』

 岡山駅の西口に、長いアーケイドに覆われた商店街がある。表口とは全く趣を異に
する、庶民生活の匂いをふんぷんさせる街である。
そのアーケイド街の西の外れに、壁面や間仕切りを木彫で埋め尽くした、一風変わっ
た喫茶店があった。

 思えばT氏とは長い付き合いだった。ボクがようやく油絵を始めた頃、いつも通っ
ていた件の喫茶店のマスターに、この店の壁面彫刻をした芸術家に、一度絵を見ても
らえとT氏を紹介された。

 T氏はボクより一回り年上で、なが〜い顔の下半分を髭で埋めていた。やがて現代
彫刻家として、国際的にも名を知られることになるのだが、その頃のT氏は未だ無名
の貧乏アーチストだった。その時、氏に見て貰った絵は、ボクの甥をモデルに素描し
た、ルノワールの少女に真似た15号の油絵だった。
 「泰西名画の吉永小百合じゃのう・・・」と云っただけで、氏の評論は終わった。
つまりボクは相手にされなかったのである。
 それでもT氏はボクを可愛がってくれ、ゲイジツカが集まる飲み屋によく誘ってく
れた。

 それからボクは、2年近く全国を放浪した。岡山に帰るとT氏は現代美術の国際的
な賞を獲り、一躍有名人になっていた。
 ボクは生活の為の仕事として、グラフィックデザインの道に入り、結構いい収入が
得られた。がT氏は相変わらずの貧乏であった。

 ボクはT氏を、釣りやらキャンプによく誘った。ある日、もう一人の友人と三人で、
瀬戸内の島で釣りをしていると、突然低空飛行するヘリコプターが頭上に現れた。
まるで映画「地獄の黙示録」さながらであった。松食い虫防除の薬剤を散布するヘリ
だった。
地上で安全を確認する職員達が我々に駆け寄ってきて、週日に遊んでいる怪しげな3
人に「学生さんですか?」と声をかけた。ボクともう一人の友は30過ぎて、T氏は
髭面のオッサンである。
その時のT氏の答えが「我々は社会人であります!」だった。

 その後、何年が過ぎたのかもう思い出せないが、T氏の奥さんが社会党のマドンナ
ブームに乗って市会議員になり、T氏は着実に名声を築き、ボクはといえば当時めち
ゃくちゃな生活を送っていた。

 そんな或る夜のことだった。ボクとT氏は、自転車に相乗りして飲み屋街ををふら
ふらとはしごしていた。人気の少なくなった深夜のアーケイド街にピッピーと警笛が
響き、ボク達は警察官に呼び止められた。自転車の二人乗りへの忠告にはじまった警
官の、くどくどとした職務質問が始まった。氏名住所を問われたとき、既存の価値観
や権威に反抗してきたT氏は、毅然と胸を張って言い放った。
「わしの女房は市会議員じゃ!」

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