『T君のコッペパン』

 貧しい時代であった。義務教育といえど、学校に来られない子供もまだ沢
山いた。
 T君はボクより2才年上の同級生だった。出席日数が足りなくて、小学校
をもう2年も留年しているのである。昭和29年に「学校給食法」が制定さ
れ、田舎の小学校でもようやく給食がはじまって間もない頃だった。脱脂粉
乳、肝油、コッペパン。今となっては、その不味さばかりが記憶に残るが、
栄養状態の悪い戦後の子供達にとって、貴重なものだったのだろう。
 パンと肝油は、登校していない子供の家にも届けられた。家が近いT君に
パンと肝油を届けるのがボクの役目だった。
 小さな家である。玄関を開けると直ぐ、一間きりの座敷で内職する母子と
対面した。彼らの脇には、編み上げられたばかりのイ草籠が積み上げられて
いた。当時岡山県は国内有数のイ草産地であった。今は殆ど見ることはなく
なったが、買い物かごと言えば、イ草で編んだものが普通であった。イ草を
縄に縒り赤や緑に染めて編んだトートバッグである。
 T君に父親がいたかどうか知らない。ただ母一人の内職では食べられなか
ったのであろう。母の手も子の手も、色んな染料が染み込んで真っ黒だった。
 そんなT君も、ボクと同じ学年で中学に上がり、運動会や野球の試合では
その体格差を遺憾なく発揮した。やがてT君の指に染み付いていた染料の色
も、時代が変わって行くように薄れていった。

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