「no-guso」

 花の礼文島にボクはもう1週間も滞在していた。1999年6月下旬のことである。礼文
はまさに花盛りであった。淡黄色のレブンアツモリソウの最後の一花も見ることが出来たし、
一面のレブンウスユキソウも見た。だが北海道の美しさを凝縮したような礼文島の風光や、
内地では高山でしか見られない野の花々のことを、この一文で書こうというのではない。そ
の後のボクを今日まで悩ませる、ある事件のことを書いておこうと思っている。

 その日ボクは、島の北辺の西上泊から入り、島の南北を縦走する遊歩コースを歩いていた。
眼下に西上泊の漁村を俯瞰する位置でスケッチしていると、ボクが登ってきた路を一人で登っ
てくる人があった。やがてボクの背後に立ち、「いいですね」と声を掛けた。頭に時代劇の鳥
追い女のように手拭いをはらりと掛け、タイツとTシャツに小さなアタックザックを背負った
だけの、随分と軽装な若い女性であった。ボクはスケッチブックを閉じ、彼女の道連れを決め
込んだ。

 いろんな話を聞いた。千葉の人で、旅とバイクが大好きで、薬剤師の免許とり、今は札幌の
病院に勤めているそうだ。ボクは千葉県人でバイクで一人旅する女性と何故か縁があり、いつ
か屋久島の海中温泉で混浴した人も、信州霧ヶ峰高原を、お互い足痛めながら一緒に歩いた人
も千葉の女性ライダーだった。
 褶曲した地層の断面を荒々しく見せる断崖の上で「ボクはここで一枚描いて行きますから」
と云うと、「ゆっくり描いて下さい。私、そんなの待っているのが好きなんです」と彼女。手
拭いをとり、額の汗を拭うその人は随分と色白く痩身で、三十絡みの美しい人であった。彼女
の足元にレブンウスユキソウが群れ咲いていた。ウスユキソウのような人だと思った。花盛り
の丘の上でボク等は銘々の持参した粗末な弁当を食べた。
 やがて路は海岸へ降り、何時落石があってもおかしくないような崖下の浜辺をしばらく行く
と、開けた浜に出た。そこに一軒の漁師小屋があった。礼文縦走8時間コースの三分の二地点
の宇遠内休憩所である。舟板で造った粗末な小屋で、ばあちゃんが小商売していた。「今朝じ
いちゃんが前の海で獲ってきたもんだ」というウニと、ばあちゃんがあの岩から掻き取ってき
た、生岩海苔の味噌汁を一品ずつ頼み、二人で交換しながら日本最北の島の美味を味わった。
お互いに貧乏旅、利尻、礼文で食べる初めてのウニだった。

 ボクが諦めた利尻富士にも登って来たという健脚の彼女、宇遠内から海岸沿いに島の南部を
一週する計画である。ボク等は宇遠内で分かれた。
 ボクは宇遠内に唯一あったトイレで用を足さなかった事を後悔しながら、島を東西に越す山
道を歩いていた。ボクの腹は心太式で、食べれば必ず出ようとする。ボクはウスユキソウの君
に見栄を張ってしまった。脊梁の薄暗い杉林の中で、ついに我慢出来なくなり、林に入り野糞
した。勿論形跡を残さぬよう後始末したのだが、今日一日の出来事に対しても、花盛りの礼文
島に対しても、ものすごく失礼な事をしてしまったと云う思いが残った。
 暗い森をようやく抜けると、香深井から桃岩へ通じる林道コースに出た。この路を右にとり
南下すれば桃岩を経て香深港である。腹の具合が今一つ良くなく、ボクは結構疲れていた。ザ
ックを下ろし、一休みして、バスが通る香深井への道を下りはじめた。間もなく、オーイと呼
ぶ声が後に聞こえた。振り返ると宇遠内で別れたウスユキソウの君ではないか!。

 彼女は宇遠内を出てすぐ、地元の人に海岸を行くのは危険だからと注意され、引き返したそ
うだ。それから彼女がキャンプしている香深井近く迄話しながら歩いた。友達が今日サロベツ
の豊富温泉に来ると携帯で連絡してきたので、キャンプ畳んで夕方のフェリーに乗ると云った。
ワケアリな男友達であろうことはすぐ想像ついた。そんなことよりも、ボクの頭の中は彼女が
何時ボクに追いついたのか?そのことで一杯であった。彼女はボクの野糞を目撃したか否か。
ボクはすっかり暗くなっていた。キャンプ場の入り口でボク等は別れた。

 バスが通る海岸沿いの道路に下りた所が香深井のバス停であった。今朝の予定では宇遠内か
ら林道コースを歩き、桃岩経由で香深港に至るつもりだった。それで朝早く、島の北辺の久種
湖畔キャンプ場を出て、南辺の香深港へ車を置き、バスに乗り再び北上し、西上泊から歩き始
めたのである。
 香深井のバス停から香深港までは4キロ程である。バスの時刻表をみると、次のバスまで2
時間もある。ヒッチハイクでもするか、と歩き始めた。何度も走ってくる車に手を挙げてみた
が、坊主頭の怪しいオヤジ、止まってくれる車はなかった。結局香深港まで車道をトボトボと
歩き、草臥れ果てて我が自走庵に辿り着いた。途中荷物を満載したマウンテンバイクがボクに
手を振って追い越して行った。そのウスユキの君を載せたフェリーが、礼文名物の、民宿で働
く若者達総出の仰々しい見送りを受けて、今出航するところであった。

 珍事はその夜から始まった。久種湖畔のキャンプ場から歩いて行ける所に銭湯があり、風呂
に入らないと酒が待つ夜が始まらないボクにとって、この銭湯は有り難かった。自走庵を久種
湖に戻し、一風呂浴びていて、右腕の内側に一列に連なるホンダワラの実状の水泡を見付けた。
よく見ると、右大腿部の側面にも同じような物が出来ていた。それはしゃがんで尻を拭くとき
に相互に接触する位置関係にあった。草むらで野糞したとき何かの虫に刺されたに違いなかっ
た。痛くも痒くもなかった。翌日は花をスケッチしたりして体を休め、次の朝礼文島を発った。

 稚内から国道40号線を南下して、音威子府近くの天塩川温泉キャンプ場へ泊り、温泉に入
って驚いた。右大腿部の側面が、手の平大の葡萄色にただれていたのである。ツツガムシのこ
とが頭をよぎった。
 それからも1週間ほど道北をうろつき、ついにガーゼを換えても換えてもズボンを汚すほど
の汁が出るようになり、美瑛町立病院へ駆け込んだ。医師に聞くと、礼文にツツガムシはいな
いらしいが、刺した虫の正体は分からなかった。腕の方は大したことにならなかった。副腎皮
質ホルモン軟膏を投与され、別に痛くはないものだから、ボクは旅を続けた。ただ、函館から
大間に渡った時には「帰ろうか」という気にはなっていた。一向に良くならない患部を診て貰
うため、大間町立病院へも行った。ここでも副腎皮質ホルモン剤を投与されただけであった。

 それからも東北地方をうろついて、ようやく高速道路に乗ったのは、虫に刺されて20日ほ
ど後の越後米山インターであった。岡山までの700Hを10時間で駆け通し、その日の夕方
には家に帰っていた。親不知が痛み出していたのである。

 次の日とりあえず、我慢ならない親不知を歯医者で抜いてもらい、翌日は土曜日であったた
め、週が明けるまで待って、皮膚科に行った。じくじくにただれた部分は表面に薄い膜が張り、
汁が出ることはなくなっていたが、腹部から両腿にかけて大小の赤斑が無数に出来、猛烈に痒
くなっていた。ズボンを下ろし、シャツを捲り上げた、実に情けない恰好で中年の女医さんの
前に立たされた。

 虫刺されによるアレルギー症状だろうと云うことで、やはり副腎皮質ホルモンの軟膏を出さ
れた。腿のただれは治っていったが、モグラ叩きのように場所を替えては出てくる痒い赤斑は
一向に治まらないため、副腎皮質ホルモンの服用まで始まった。二ヶ月ほど経って、ボクは先
生に何か他に原因があるのではないでしょうかと訊ねてみた。そこで血液検査してみることに
なり、その結果をみて先生慌てて日赤に行くよう紹介状書いてくれた。血液中の中性脂肪値が、
いつポックリいってもおかしくない程高かったのである。

 日赤では、酒のせいだと云われるものの、酒を止めてしまえとも云われないので、大量の薬
を飲むという治療が今日まで続いている。それでも、あれほど元気だったボクの体力は、歳を
追う毎に急速に衰えている。薬など飲んだこともないボクは、大量に投与される薬の量に圧倒
されてしまっているのである。この衰えは薬のせいだ・・・などと、年齢の事を忘れて思い込
んでいる。

 あの痒い赤斑は今も、忘れた事を思い出させるように、たまに腿の内側にポツリ出てくる。
あれは一体何だったのだろう。あの正体の知れぬ虫に注入された何かが今もボクの体内に生き
続けているような気がする。それは礼文島の地神がボクに与えた罰なのかも知れない、等と時
々考え込んだりもする。

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