「ひよこ売り」

ひよこ売来て春寒の咳おとす・・・萩原麦草
 
 昔々(ボクが子供の頃)、今の様に娯楽も少なかった頃、小学校の校庭や
職員室にも、曲芸師や色んなものを売る人達が来ていた。

 墨の一筆描きで蛇の鱗から蛇腹まで描いてみせる人。滋養強壮に良いとい
うヤツメウナギの干物を面白おかしく口上たてて売るひと。なんとかブラザ
ーズという自転車乗りの曲芸師。
 神社や寺の縁日にも、今に思えば怪しげな商売する人達が大勢集まった。
手を透かして見れば骨が見え、餅を透かして見れば中に入っている餡が見え
るという眼鏡。明らかにオジサンが盤の下で操作しているルーレットのよう
な当て物。そこには必ず、ピンク・ブルー・黄色に着色されたヒヨコを売る
人が居た。 

 ヒヨコは買って帰って1ヶ月もすると、赤い鶏冠をつけた白色レグホンの
雄になった。希に雌が混じることもあった。昭和30年頃から日本を席巻し
ていった「文化住宅」以前の田舎家は、大抵庭に面した南側に縁側があり、
縁側の下に金網を張り、鶏を飼っていた。我が家にも縁日の当たり物の雌鳥
が何羽か飼われていた。
 
 あれは、中学卒業直前のことだった。ちりぢりに別れていく悪童共が数人
集まって、丘の上の一軒家に住む、両親が共働きの友人宅で、別れの宴会を
開くことになった。銘々懐に酒を隠し持ってきたものの、食う物が足りなか
った。
 友人宅の縁の下にも鶏が飼われていた。中に、卵を産まなくなって久しい
という、みすぼらしい羽抜鶏が一羽いて、そいつをシメようということにな
った。ところが誰も鶏のシメ方を知らなかった。誰かが捕まえた鶏の首をぐ
りぐりと捻ってみたが、くるくるっと戻ってしまった。当時、町の肉屋の裏
庭に、首を切られ、逆さに吊された鶏の姿は、日常的に見られた景色であっ
た。
 「よし!」と飼い主の友人は出刃を持ち出して、頭と胴を2人がかりで引
き延ばされた、哀れな鶏の首をエイ!と断ち切った。吹き出した血にワッと
手を放された鶏は、頭の無いまま立ち上がり、2〜3メートル走ってぱたり
と倒れた。
 皆、顔面蒼白となりながら「生き物を食うというのは、こういう事じゃ!」
と励まし合いながら庭の木に鶏を吊し、羽をむしった。

 どのように料理して食べたのか思い出せ無い。ただ噛んでも噛んでも噛み
切れぬ肉の硬さ(岡山弁でシワイと云う)だけが記憶に残っている。生まれ
て初めて自分の手で、温い血を持つ生き物を殺し、食べたことへの深い深い
思いの残渣のように・・・。
 書きながら、自分でも嘔吐覚える様な文になってしまった。食べるという
事は他の命を頂く事であり、田舎の子供達にとって当たり前のこと(の筈)
であった。ボクの家の鶏もたまに食卓に載った。親父が子供に見せぬようシ
メて捌いていたのだろう。

 ボクはスーパーに良く買い物にいく。近頃はまっているケンチン蕎麦のダ
シに、かしわ(所謂オヤドリ)の肉を買うことがおおい。その時ふと、あの
羽抜鶏殺食事件のことを思い出すことがある。

 卒業以後奴等とは会うこともなくなった。今会っても顔も覚えていないだ
ろう。、駆けだした首のない鶏のように、記憶は後ろ姿だけを残して遠くへ
去って行く。

close