「猫まんま」 


 猫まんまなどと云う言葉、現在では死語になっているのかもしれない。
 1980年頃、学生街の食堂のメニューに載ってニュースになった記憶がある。犬はドッ
グフードを、猫はキャットフードを食べるのが当たり前になる以前、人間の食べ残しを飯
にかけてもらうのが、犬猫の普通の餌だった。魚のアラや骨があれば大ご馳走であった。
その時代に犬猫を飼った世代は、今でも魚や肉の食い残しを躊躇なく捨てられない。犬か
猫がいれば喜ぶだろうに・・・と、つい思ってしまうのである。

 与えるものが何も無いときの間に合わせに、飯に醤油まぶした削りがつおを混ぜて、猫
に食べさせたものが「猫まんま」である。これは人間様が食っても結構ウマイ。ボクは長
いキャンプ旅には、必ず小分けしてパックした削りがつおを持っていく。雨に降り込めら
れたり、飯の支度が大儀なときなど、今もちょくちょくお世話になっている。そして猫ま
んま食う度に思い出してしまう言葉がある。

  何をやっても不器用で、ただ一つのことをがむしゃらに、なり振り構わぬ生き方で、
現代アートの世界に売り出した友人がいる。その年長の友人から「おまえさんのすること
はみな、上手に盛りつけた『猫まんま』にみたいなもの
じゃな」と言われた事があった。  
 ボクは器用貧乏を絵に描いた様な男だとよく言われた。なんでも器用にやる、が、それ
以上の努力ということを全くしない。努力という言葉がボクの辞書から欠落していたのか
もしれない。
「それが俺の不運だった」などと、いまだ天のせいにしているところも無くはない。

 我流で始めたイラストや写真、筆文字等では少しは稼げた。が一人前とはなれなかった。
近頃はじめた水彩画や俳句も、我流のまんまで進歩もない。ボクの場合、やること為す事
すべからく、ご飯にかつぶし載せただけの「猫まんま」の域を出られないのである。
 「猫まんまみたいなもの」と言う、的をついた言葉。それは今も、ボクの喉に小骨のよ
うに引っ掛かっている。
 
たまにエヘンオホンと咳払いはしてみるのだが。
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