「屋久島・平内海中温泉」
「秋の航一大紺円盤の中」いつか読んだことのある中村草田男の一句が、大きなフェリ ーで海洋に出たボクの心を震いいたせていた。船が大隅半島の先端を抜けると、薄い靄の せいか、上空は晴れているのに視界から一切の陸地も島影も消え、ただ船を中心にした一 大紺円盤の世界があるばかり・・・フェリーは4時間で屋久島に到着した。 ほぼ円形の島の最南部に、満潮時には海中に没してしまうという秘湯、平内(へいない) 海中温泉はある。温泉を見下ろす崖の上に車4〜5台分ほどの駐車場があり、大きなガジ ュマルの木が心地よい木陰をつくっていた。幸い直ぐ近くにログハウス風の新しいトイレ まであり、分かり難く、車が滅多に車が入ってこないこの場所にボクは、この年の正月休 み居すわろうと心にきめていた。 島は車で2時間半もあれば一週できる。風呂は日に2度の干潮時にしか入れないが、無 料である。20分も走ればAコープもあり、延命水といわれる名水も沸いている。
盆正月、家族からはぐれた者は世間からぽつり取り残される。正月は雪のある景色の中 |
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Aコープが休みになり猫と分け合って食べる食事も貧しくなっていった。それでも車で 島を巡って駐車場に帰ってくると、猫はどこからともなくジャージャーと鳴きながらあら われた。 ある昼間、風呂に行くと豊満な肉体のご婦人が5〜6人タオルケットのように大きなバ スタオルを巻いて岩場にトドの群のように横たわっていた。遠慮して自走庵に引き返し、 ガジュマルの下のベンチで心地よい風にウトウトしていた。騒々しい声に目を覚ますと、 先程の御婦人達だ。「わー!ここエエ眺めやわあ。あ、兄ちゃん写真撮してくれはる?」 車の中から驚き顔で覗く猫見付け「ヤアかわいいネコやわー、ええなーネコと旅行やなん て。(孫に)ほれピーナツやってみイ」と一騒ぎして去っていった。 島に来て何日になるのか分からなくなっていた。夜中むっくりと起きあがり、用事あり げに出ていった猫。しばらく近所のトタン屋根をドタバタ鳴らして騒いでいたが、血相変 えて自走庵に逃げ込んできた。ボクの肩に乗ってフクロウのように見開いた目でしばらく 闇の中の一点を凝視していたが、ようやくいつものようにボクの顔の傍でグルグルと眠っ たようである。 翌日外から帰ってみると、ボロボロに裂けた耳の巨大な顔した雄猫が駐車場の周りをう ろついていて、その日から小娘猫は姿を見せなくなってしまった。 ガソリンスタンドもAコープも閉まったままだし、水道管破裂してトイレは断水してし まうし、あいつは居なくなるし、そろそろ島を離れる頃合いかもしれないと思った。 最後の夜の海中温泉はにぎやかだった。大阪から里帰りの二組の中年夫婦と、縄文杉見 て今日山を降りてきた青年。途中で断念して引き返したというニイチャンと白髪頭の地元 のジイさんが満天の星の下でワイワイやっていた。「わし、この島で星見とると地球が宇 宙に浮いた星の一つやちゅうことホンマ実感するワ」おばちゃんご亭主の感慨に無関心で 「あ、ニイチャンそこすべるで、気いつけや」。縄文杉男は山屋の謙譲と自信を静かな口 調にひけらかして「直径5.2メートル、紀元杉の何倍もある巨木が、森の中のやや開け た場所にでーんと立っているわけですから・・・。大抵の人は感動して涙流すそうなんで すが、ハハハ・・・僕は感受性が鈍いんでしょうか、凄いなと思うくらいで」。挫折ニイ チャンと未だ一度も縄文杉見ていない島育ちのジイさんと、憧れを残したまま島を去ろう というオヤジが一斉に「このヤロー!!」。 みんなと星に浮かれて2時間も風呂に入った。翌朝、ボクは1枚の写真も写さぬまま島 を離れた。本気で水彩画を始める5年ほども前の話である。 完 |
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