「ハチ」
 まだ町に住んでいたのでボクが小学校低学年の頃だろう。家にはしかつめらしい顔した、
ハチという名の、父に似て愛想のない老犬が棲んでいた。何時も裏庭の隅に繋がれていて、
声を出す事など殆どなかった。僕らが学校から帰ってくると、はにかみむように目をしょ
ぼつかせながら、お稲荷さんの狐のように迎えてくれる程度だった。
 ある日ボクは学校の帰り、道端でミーミー鳴いていた仔猫をみつけ、見過ごし難く家に
連れ帰った。猫嫌いな父の目を避けて、ハチの小屋に隠した。ハチは雄犬だったが、戸惑
いながらも是非もないといった顔で仔猫との同居を受け入れた。
 父がミノルでミーちゃん、母がタマエでタマちゃん。まるで猫の夫婦だと母がこぼして
いたので、仔猫はポチとなずけた。それから一週間ほどして、ポチは父に見つかってしま
った。一里以上放れた隣町までボクは泣く泣く自転車で棄てにゆかされた。そして汗と涙
と鼻汁で真っ黒になって家に帰ると、ポチはハチの足の中で甘えていたのである。ハチは
首輪など簡単に抜けてしまう犬だったのだ。ボクの後を追って、棄てられた場所からポチ
を連れて、ずっと近い山道を帰ってきたのだろう。我が家は大笑いであった。父もポチを
飼うことを許してくれた。やがてこのポチが、ボクにいろいろと大変な事件をもちこんで
きたのであるが、それはまた別の機会に書くことにしよう。
 ハチが何時から家にいたのか分からない。多分物心付く前から居たのだろう。それにし
てもハチが何時、どのようにボクの前から消えたのかが全く思い出せないのである。人は、
いや子供は、耐え難く辛かったことを記憶の中から自動削除するシステムをもっているの
かも知れない。動物の思い出は何時もツライ話に終わる。それは動物たちが我々よりずっ
と速く生き、我々を通り過ぎて行ってしまうからだろう。その短く燃えた命の輝きだけを
我々の記憶にのこして。
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