「旅の一座」

 花江さんが消えた数日後、長持の中で手首を切った男の自殺体が発見された。

 秋祭りには、毎年、刈り取りの終わった田圃に小屋を掛けて、どさ回りの一座の芝居
が興行された。二三の劇団が交代でやって来るようで「今年は沢長が来るのう」などと、
村人達は贔屓の一座を待ちかねていた。
 当時の演目と言えば、国定忠治であり、沓掛時次郎であり、一本刀土俵入りであり、
妙にしんみりした壺坂霊験記などであった。「頃は六月中の頃、夏とはいへど片田舎〜」
など、いまもボクの中に沁みついている。
 大人になって大和路を旅している時、峠の途中に<壺阪寺入り口>の看板を見たとき、
妙に感慨深かったことを思い出す。ボクの演劇との関わりのルーツに出会ったような気
がしたものである。

 田圃に小屋が掛けられると「沢村何某一座」とか「雲井何某一座」とか書かれた幟旗
が何本も翻り、村中をふれ太鼓が回った。
 芝居が始まるのは日暮時だったが、ボク等は幕開け前から小屋に侵入し、緞帳の下か
ら、異界を覗くような興奮を覚えながら「幕」の向こうの世界を覗き見した。白粉塗る
半裸の男女がいて、小さい子等が裸のまま「おかーちゃーん」と叫びながら舞台を走り
回っていたりした。芝居は歌謡ショーを交え、幕間に、先程走り回っていた子供達が
「旅の一座に拾われて・・・まだ見ぬ母の影慕う」
親を探し訪ねる子として紹介され、万古の紅涙を絞り、舞台には沢山の「花」が飛んだ。
そして一座が村を去ったあと、大抵、村の娘が一人二人居なくなった。歌謡ショーで金歯
を見せてにっこり笑う、若い看板役者の後を追って、家出してしまうのである。
 村で評判の美人であった花江さんもそうして消えた。ただ花江さんには婚約者が居た。
元庄家の三男坊で、体が弱くいつも家に閉じこもっていて、ボク等もほとんど顔を見たこ
とがなかった。その男が自宅の倉の長持の中から自殺体で発見されたのである。ボク等は
恐る恐る見に行った。黒く塗られた、古びた長持の蓋が外され、白木の内側に真っ赤な血
が張り付いていた。

 家出した娘達は大抵半月もすれば、きまり悪そうにこっそり家に帰ってきたが、花江さ
んは二度と帰ってこなかった。昭和30年代とはそんな時代であった。
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